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万朶会 繋げる読書会

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第十二回 ゴーゴリ 『狂人日記』他二篇

開催日時:2010/11/11 1300~1445 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:K


おはようございますこんにちはこんばんは。お初です。Kです。
第7回あたりからこっそり参加しています。現時点での参加者が法学部3名と工学部1名ということで、理系的視点からまた違った風を吹き込みたいところですが皆の知識に感心しきり、自分は遅刻とか飛行機の話とか遅刻とかばっかりしています。あとは遅刻とか。
本日はMが帰省のため1415に発たなければいけなかったので1230から開始予定だったのですが、私がすっかり失念していて結局1300から。全くもって面目ない。。
いやー、まとめるのがこんなに大変とは思わなかった。

というわけで19世紀前半に活躍したウクライナの作家、ゴーゴリ先生です。
今回私が担当することになったのも「ロシアだから」。まあ理由としては十分ですね。
所謂「ペテルブルグもの」3作、合わせても200余ページでしたがなかなかに話は弾み芸術論にまで膨らんでいきました。
ちなみに、このころ(19世紀)の作品にはペテルブルクが舞台のものが多く、モスクワやシベリアはWWⅡ以降にならないとあまり出て来ないそうです。


それでは本題に入っていきます。

「狂」この1文字なくしては今回の読書会は成立しません。なぜ狂うのか。如何に狂うのか。昼下がりの喫茶店に「狂」の字が飛び交うことと相成りました。

まずは表題作「狂人日記」を主軸に。

Mは本作の狂い方が好きだったとのこと。Yも、フォントまで狂っていく終盤の表現を恐ろしいと感じたということでした。
私としてはもう少し狂い方を一ひねりしてほしかったナァという感想を抱いたのですが、それはあくまで絵に描いたような「テンプレ通り」の狂い方をしているためであって、実際は結構ニヤニヤしながら「いいねえ、狂ってるねえ」と思って読み進めておりました。

そして話は一旦、主人公の役職からロシア帝国の官の構造へ。主人公はしがない九等官(所謂下級官吏)。ロシア小説では、四十代で九等官止まりというと典型的ダメな奴という描かれ方だそうです。
本作では(または「ネフスキイ大通り」でも)そんな主人公の視点から帝政ロシア官僚制の世界が垣間見えるわけですが、普通は「貴族」⇔「平民」という描き方が多いのに対して本作、というかロシア文学では官僚の貴族の中にも明確な階級、階層構造があります。
これとよく似ているのが実は平安貴族の構造なんじゃあるまいか、とはFの談。なるほど確かに、貴族間での権力争いの描かれ方は共通しているように思えます。惚れた腫れたばかり描かないのがロシア文学とは違うところだわな、というところでこの話はオチるのですが。

さて次に「外套」の話や文体のことからだんだんと「肖像画」の話へ。
Yは「肖像画」が一番好きな作品としつつも、内容は結構ステレオタイプかもねということでした。
ではそれなのに魅力が出てくるのはなぜか、というと言い回しの軽快さ、巧妙さがまず挙がりました(Yが例としてあげたのはp178「給料なんか~」のくだり、p192のl1など)。
ストーリーの古典さ(まあ古典だから当然ですが)と言い回しの面白さから「ラノベじゃねーか!」という発言も。
ストーリーに関しては、ロシアの政情からあまり好き勝手なことは書けなかったんじゃない?という話が出ました。言い回しについては訳者の手に因るものも大きいかも。
言い回しだけではなく、表現の秀逸さにも言及。絵の描写が非常にリアルで、恐ろしいという感想がまずYから出ましたがこれには皆同意といったところでしょうか。
呪いの絵ということで、「このページを読む者に永遠の呪いあれ(マヌエル=プイグ)」の話なんかも出たり出なかったり。

言い回しが秀逸という例を挙げていたらいつの間にか「狂人日記」へ戻り、犬の会話を日記にしている狂気で盛り上がりました。
犬の会話は主人公の妄想であるにも関わらずその中に主人公の外見を貶める記述がありますが、これは自己反省、思考の根底にある自虐(例として挙げられたのがKの泥酔時…)ではないのか、ということで落ち着きました。
そしていよいよ「狂う」という精神状況の核心へ。まずは「何が発狂のトリガーになったのか?」ということ。
冒頭で「鏡とでも相談してみたらいいんだ」という上司の発言があり、これが何かを仄めかしているように感じられます。
ですがやはり共通意見として「発狂のトリガーは明確には描かれていない」という結論に至りました(これは登場人物の生い立ちを詳細に描いた「飢餓同盟」とは異なる点ですね)。
これについての理由としては「描いても面白くないから」「面白くないし多作なのでそこまで練る暇もなかった」などが挙がりました。
ならばなぜ発狂した?という話に発展し、閉塞した役所の社会が原因じゃないだろうかというところで概ねまとまりました。
が、これとよく似た社会が実は日本の田舎町の社会ではないか、という説がFから飛び出し、「じゃあ現代日本で狂人日記書ける、というかもう誰か書いているんじゃないか!?」と大いに盛り上がる一同。
しかしそういった小説がパッとは思い浮かばない。現代日本では題材的に出せないのかもなあ、と落胆する我々。
石原某氏とかは結構トンデモないのを書いているらしいですが(完○な遊○とか)。

肖像画の第二部、主人公の父の話からロシア正教周りの宗教観、親子観(そもそもロシアには父称というものがあるので日本の親子観とは違う点が大きいはず)についてゆるりと話したあとは
本日2番目の山場かな?「肖像画」における「絵を文章にする」ということについて。
芸術の中で一番互換が効くのは文章である、という出発点。ではなぜ文章を使うと他の芸術を表現できるのか?文章は他と比べて高次か低次か?
絵をみて彫刻につながるか?彫刻は絵にするよね?といった問題提起に対して、色々と話が弾みます。
(当日は出てきませんでしたが、短絡的に考えると彫刻は3次元、絵画は2次元、文章は流れが一本あるので1次元。やっぱり文章は低次かな。高次のものをあらゆる視点から正確に射影できるという点でも。屁理屈チックですが。)
芸術の話になったので「ネフスキイ大通り」の〆も引っ張り出します。馬や料理番の対比は一見ピロゴーフとピスカリョーフの対比に見えて実は画家と女の対比なんじゃないか?という説や「だまされるな、審美眼を鍛えろ」というメッセージが出てきて、
時間も気にしつつではありましたがモリモリ盛り上がったのでありました。一目見て感覚的に批評するのではなくて、しっかり文章で批評しようね!

自然科学は演繹・帰納、芸術はそれを傍から弁証法、なーんて話も出ましたがちょっと自分の中でまだ考察が足りてない気がするのでボロがでないようにさらっと触れるだけにしておきます(ズルい)。



さってと、意気込んで書き始めたのに既に次回の読書会は終了。すいません。次回は11月18日につつがなく執り行われましたエンデ「モモ」。乞うご期待!
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第十一回 安部公房 『飢餓同盟』

開催日時:2010/11/4 1310~1530 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F
文責:Y

書くのが遅れました。第十二回目が行われた日に書いております。
徐々にペースを戻しつつきっちり翌週に行われた万朶会。今回の課題図書は『壁』で芥川賞を受賞した阿部公房から、『飢餓同盟』をチョイスです。

大まかに説明すると主人公(として良いと思われる)花井が徐々に狂っていき、その途上で数人の周りの人々を巻き込んでゆくというものでしたね。さぞやMのお気に召す物語だろうとY,Fはにんまりしていたのですが、Mはなかなか面白がって読めなかったそう。

何故か、と二人が半ば詰問する形に。花井に感情移入して読んだのが原因のようです。
感情移入してしまったのはなぜだったのでしょう。うんうんと悩んだ後でも正確な理由らしきものは靄の中でした。


(第十二回で同種のように思われる小説『狂人日記』について議論したということもあり、振り返って私論をひとつ。)

『飢餓同盟』の花井と『狂人日記』内の人物に共通する点があるとすれば、それは最終的に両者が狂ってゆくところなのですが、それまでの過程の描写に大きく差があります。
前者では花井の生い立ちから家庭の事情、過ごしてきた境遇などが相当なページ数を掛けて語られてきたのに対し、後者は人物のそれぞれが狂うに至った経緯に関しては多少の説明があるものの、各人の性向や過去に関してはさらりと描写がある程度か、または全く描写がありません。
また、前者は花園への復讐、ゆくゆくは国家の転覆という、実現可能性は著しく低いながらも「ありえなくはない」範囲での行動であったのに対し、後者は一枚の絵の影響で人々の性質が豹変したり犬が喋ったりと、些か現実に起こりうるとは考えにくい設定が登場してきます。
飢餓同盟の方が話としてはより私達の置かれた状況に対して卑近に感じられた分、また『狂人日記』の方がより物語的で現実とは切り離して作品を読み取ることができた分、Mが花井に感情移入をし、チャルトコーフの転落ぶりを読んでもどうともないと感じるに至ったのでしょうか。
第十二回の万朶会においても「小説は一番お膳立てに手間のかかる芸術だ」という話が出たように、長々と原因とされる記述があった方が、感情移入を行いやすくなるのかもしれません。

と、ここまで書いておいてMが「最初の方を読んだ時点からもう共感していた」という言葉を思い出すという。あれれ、よく分からなくなった。最初から共感させるには、もっと何か導入の段階ではっとさせる何かがあったのでしょうか。
コメント部分で考えの補足をしてみては如何でしょう、Mさん。記録者だけが読み解くよりも、広げた方が思考が深まるでしょうし。


さて、本題に戻ります。続いて僕の着眼点を。

花井の狂い方ですが、全く脈絡がなかったのではないように思われます。というよりむしろ、壮大な目的を考えるうえでの思考があまりに稚拙だっただけでしょう。人間計器・織木という切り札を当てにするあまり、その他の詰めが呆れるほど甘くなっています。その上ヒロポンの常習者だった花井の思考にはただでさえ脆かった脈絡を完全に失い、終いには森の手によって精神病院に収容されるまでに至ります。流れからしてそうなるだろうな、と読者に予想させる描き方です。

感情移入という点では、僕は織木に寄り添って読んでいました。
織木は最後まで花井に寄り添い、彼の理解者であろうと努めていました(p209参照)。共に折り重なって崩れるうち、一方を理解しようとする側がもう一方の手によって貶められる、という構図もまた一種の型であるように考えても良いと思います。ごく最近の例で言うと、湊かなえ『告白』の中に出てくる男子生徒と女子生徒にも同種の関係が見られます。ここで現代小説の話を持ち出すとなんだか安っぽくなってしまいそうなのですが、テンプレートが現在も使いまわされているという意味で、ひとつ。
ちなみにこの二作中に共通するのは、互いの組がその身独りで負うには重い過去を背負い、打ちひしがれているという点。そして互いに同様の境遇にあるということに何らかの絆を感じている点。負の絆の生む苦々しい結末の物語には、何とも言われぬ独特の読後感が現れています。この物語も、そのひとつ。

もしもこれから互いに寄りかかれる関係を築けるのならば、それが負の要因に依らないことを祈るばかりです。何か重くなった。


続いてFの着眼点。花井の尻尾についてです。
これは何を象徴しているのか、という点で議論を行いました。
先祖返りか、はたまたひもじい様のもとに生まれたという異端の象徴か。
一旦は切り落とした尾なのですが、終盤、花井が明確に狂った時には(少なくとも花井の意識下では)立派になって再び生えてきます。
これはどうしたことなのでしょう。よく分からないまま議論が流れてしまいました。
先祖返りだとすると、猿の時代に尻尾が持っていた大きな役割はバランスを取ること。それを切り落としたことで花井からバランスを取るレーダーのようなものが失われ、徐々に周囲とのずれが現れてきたのかもしれません。


あと藤野家のネーミングがひどいよね、とか色々面白い話もしていたはずなのですが、あまり細部は思い出せず。
今回はこれにて終了、といたします。


次回は(もうやってしまったのですが)ロシア小説の父・ゴーゴリの『狂人日記』、そしてその次はドイツの児童小説家エンデの『モモ』です。そのまた次はそれぞれの作家研究の発表会、そしてメルヴィル『白鯨』が控えています。なかなか手強いので、今のうちに地道に進めておきましょうね。

第十回 トマス・ピンチョン 『競売ナンバー49の叫び』

 開催日時:2010/10/28 1950~2050 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F
文責:M

しばらくぶりになりましたが、YとFの体調が優れなく短時間で行われた今回の読書会。最初に話した内容は将棋の囲い方についてでした。

さて本題。

著者のピンチョンは今年で73歳にもなり、90年以降定期的にノーベル賞の名前にあがっております。今回はピンチョンの中でも比較的読みやすいと言われる『競売ナンバー49の叫び』ですが、三人とも分からないことだらけということで共通しました。

分からないこととして挙がったのは

・インヴェラリティは一体何のためにエディパを遺言執行人にして、トライステロを追わせたのか
・インヴェラリティの金のかかった悪戯なのか。トライステロの秘密にたまたま触れてしまったのか。エ 
ディパが自分自身で作り上げた妄想なのか
・エディパとメッガーの愛人関係の必要性

といった所です。
ここで「着地点が明らかにされていないから、どのようなに読んで良いか分からない。」とY。
小説には二つあって、一つが娯楽を目的とした通俗小説、もう一つが哲学、思想を主題とした純文学があり、その二つのどちらにも当てはまらないのが、このピンチョンということに。

この本は暗喩が多く、全体が一つの暗喩になっているのではないか。Federeal Gorvernmentと対比させてAnti Governmentを主題としているが、何のためにAnti Governmentをしているのか。

と、疑問は尽きることはありませんでしたが、あまりノートにとっていませんでした、すんません。

この本を読んで以前の『魔の山』を読んだ際と同様に、歴史の知識、今回に関しては郵便史について知っておくべきだったのではないか、ということでした。

郵便を独占していたテュールン・タクシス家について参考になりそうなのがこちら
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-102.htm

また、フィレンツェをはじめとする商業都市の商人達は交易の必要性から私設の郵便配達団を抱えていたそうです。ということで、他にも何か知っていたら教えてくださいまし、というオチです。

次回は『飢餓同盟』です、明日だよ!

第九回 大江健三郎 『見るまえに跳べ』

開催日時:2010/10/03 1830~2050 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F 
文責:F


はい出ました,ノーベル文学賞作家・大江健三郎でございます。川端康成は第一回で取り上げたので,これで日本のノーベル文学賞受賞者は一度ずつ扱った事になります。内容の割に読みやすい彼ですが,視点と切り口の鋭さは流石と言った所,時間があっという間に過ぎていく今回の読書会……

本題に入る前の議論として,或る作家を「読んだ」と言える事の条件が語られた。
これは,今回の課題図書に関して,読めば「大江を読んだ」と(長編例えば『芽むしり仔撃ち』等を読んだとの条件付きにしても)言えるだろうという所から始まってしまった話で,では我々は誰を「読んだ」と自信を持って言えるのか,と。実際片手で足りる程度であり,若しくは一人も挙がらない程度であり,これはまずいという事で,今までの読書会で維持してきた読書の幅を広げるスタイルではなく一人の作家を掘り下げて読むという手法にも挑戦してみようではないかと結論された次第。

今回の参加者はY,M,Fの三人で,それぞれ中島敦・梶井基次郎・永井荷風について作家研究に挑むことになりました。Kについては後日決めてもらいますが,次の読書会のまた次の日程で発表を挟む算段であります。暇だなぁ。


では本題に入りましょう。
――――――――――――――――――

短編集なので,着眼点も上手く分散された感じであります。


まずMから。

『下降生活者』 p.346 l-12
そのとき僕自身も感動していたのである。


Mは下降生活者の主人公に最初から強い興味を持ったという。それは,嘘で塗り固めた体裁を貫くという,誰もが一度は想像するがその難しさ辛さに諦めるであろうことを実践している点を中心とした関心で,そこまでブッ飛んだ人間が『同性愛』をトリガーにして築き上げた虚構を崩壊させるというのが面白いと感じた点。

一同「お前性格悪いわ!」

他者への破滅願望がMはかなり強い。自己破壊欲求に関しても猫町の回で露呈した訳で,Mは全体として猜疑心が突き出ている印象。面白いからそのままでいいけどせめて内輪では成功を祈ってくださいとここで伝える。

不完全なものが完全を目指し頓挫する滑稽さを描いた作品はよく見るが,その逆・完全な者が不満を望むというのはなかなか新鮮だった,とはYの弁。完全を装っても人はそうではないので,まま思う所に任せているのが一番で,肩肘張る事は少ないに越したことは無いのでしょう。



続いてY。

『鳩』 p.121 l-14
「ねえ,鳩のこと黙っていて」


この辺から僕は殆ど自分の話した事しか覚えていない。しかしひとまず。
Yは逆説の滑稽さについてここで取り上げた。それは,自分が悪い事をして当然叱責されるべき立場にあるにも拘らず,「混血」は自分を許すとか許さないとかではなく,なんと自分に対し赦しを求めた,という描写における感想。混乱する主人公,である。

僕はここで p.122 l-1 の解釈を求めた。突然の怒りは理路整然としているのか否か。論理的整合を認めるとすれば,それはどういうレトリックで説明されるのか。
結論からすると論理的整合があり,それは p.124 l-2 で説明できる。つまり,当然自分を罰するべき存在は脚の骨を折った混血その人だけであり,それは道徳上懲罰を与える義務でもある筈で,義務に反する振る舞いを主人公は許せなかったのではないか,と言う。そんな正義感強いなら少年院入ってるなよ主人公……と一同は思うのであった。

話を戻そう。
もし我々が主人公の立場であったら,「黙っていて」という混血の要請を受け容れるかどうか。一同,受け容れる。ラッキーと思いさえする。ここに,他者の評価に如何に乗るかという態度,そして外部評価への依存という話題が出てくるのである。
主人公は青年期の入り口にあり,所謂「自己の確立」には程遠い状態である。一方読書会メンバーは大分もうスレている。周囲の評価が気にはなれど,それにべったりつく必要も無く,むしろ利用する姿勢さえ見られる。外部評価と自己評価に乖離があればそれを受け容れて,あとは自分がどうあるか,そこでやっと問題意識が発露するといった具合。少年期は,過渡期は,おそらく他者の眼に強いウェイトを置かざるを得ず,よって不安定であり,更に(悪い事には)そこに正しさを求めるものなのだろう。
これからの正義の話をする前に,評価者と対象をしっかり弁える必要があるのではなかろうか,と。自分を外に合わせるにしろ,自己への評価を正当化させるにしろ,お好きにどうぞ。しかしその必要は本当に有るのだろうか,という所まで見て話をしたい。



ということで僕の着眼点です。

『見るまえに跳べ』 p.142 l-14~16 
ぼくはうなだれた。ぼくの指を良重のやわらかく汗ばんでいる掌がとらえた。<中略>僕は恥辱にまみれてますますうなだれた。


何でってまずエロイです。握手だけで,性を感じさせる,その気にさせる,これはなかなかできない,しかし場数を踏んでいればボンヤリとはなんとかなる。握手のみならず身体の接触は全てそうなるようにできている気がする。しかしそれは副次的な話。

問題としたかったのは「なぐさめの技法」。月と六ペンスの回で,ストルーブに対し妻があからさまな慰言で彼をひどく落胆させる場面がありましたが,要はなぐさめってものは受け取る側のメンタリティ,正確にはプライドの問題になってくる。跳ぶ前に着地点を見付けていなければ,それはただの蛮勇・馬鹿なのであって褒められたもんじゃない。落ち着ける場所を見つけるには,自尊心の檻を構成する鉄棒の間隔を或る程度広げるなりする必要がある訳で,即ち跳ぶ前に溺れろと僕は思ったのであります。

受容が欠けているのは生き辛いです。そんな経緯でgive&takeの話題にも飛びましたが,ここで特筆すべきはYのストイックさ。彼はgive:take=0:0でやっているそうです。早死にするぞ。ちなみにMはgive<take,僕はgive>takeでした。

なんでこんな話をしたかというと最近重い風邪に掛かって,頼る強さが欲しいなと思ったからでした。病気って怖いね。でも溺れる体験が少しは出来たんじゃないかと思います。依存がかっこ悪いというのはズレてるんじゃないかと考え,話を振ってみましたが,覆す所までは行けなかったようです。今回分かったのは僕とYがやはりひどく似ているなという事でありました。



○○文学を語る,という形式からは最近大きく外れた読書会進行ですが,個人的にはこの傾向でよいのではないかと思います。学問として文学的にやるのであれば,それも楽しそうですが,僕はあくまで本を通じた各人の意見・思想に関心をもって万朶に臨んでいます。要は君たちおもしろいからもっとおもしろい事やろうよ,というノリでござるよ。

次回はピンチョン大先生,『競売ナンバー49の叫び』です。そろそろ彼が出現してもいい頃ですが,みてるのかな。みてたら感想を送ってもらえると,話題が増えて面白いと思うのだけど。とまれかくまれ,日時未定ではありますが,また次回お会いしましょう。

第八回 モーム 『月と六ペンス』

開催日時:2010/09/17 1403~1610 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K 
文責:Y

やあ。今回も僕です。

今度の課題図書は、世界の十大小説の選者・モームです。イギリスの大衆文学の中で高い評価を受けた本書『月と六ペンス』、意外と中核まで話がもつれ込みました。各々の思考技量が成長してきたのをひしひしと感じます。

さて、いきましょうか。



最初の命題にした種文は、p280「女は一日じゅう愛していられるが、男はときどきしか愛せない」という文でした。この本は画家・ゴーギャンをモデルに脚色して書かれた物語ですが、ストリックランドの恋愛観は思い切り極端な方向に描かれています。

彼は女を「もの」にできる自信と外見を持ち合わせながらも、終盤まではその欲を徹底的に放棄して絵画に没頭しようとします。40でほぼ何の予備知識もなかった証券会社員が画家を目指すのですから、家族をはじめ種々の物や欲をことごとくかなぐり捨てようとします。それでも絵を描くという根本的で不可解な欲求でさえ打ち負かしてしまう欲として描写されていたのが、性欲だったのです。

Fが引っ張ってきたマズローの五大欲求によると、性欲はピラミッドの一番下である生理的欲求、絵を描くという欲は頂点の自己実現の欲求に属します。上層はその下層の欲求が満たされていないと満たすことのできないものとして仮定されているため、初期のストリックランドは中間層をすり抜けて一番上と下の欲求だけで生きていたことになります。すげーな、おい。
結局、最終的に彼はタヒチで全ての要素を備えた状態で最高の作品を仕上げるわけですが。

ゴーギャンの絵画というものは、単に綺麗な作品であるわけではありません。しかし、人を惹きつける何らかの要素があるのも事実。彼の作品は絵画の持つ単なる美麗さではなく、その絵画を仕上げるその筆致、息遣いや拍動を想起させるからこそ、価値がついたのではないでしょうか。



さて、次はp94「泳ぎ方など問題にならんのだ」のところの一節。ストリックランドにとって絵画を描くことは人生を為すために不可避の行為だったようです。

ここで、「もし人生において心からやりたいことが天から降ってきたら、他のものをことごとく捨てることができるか」という問が出たところ、
まずF・Yは「捨てる」と即答。ストリックランドに似て、少々自意識過剰なのやもしれません。
Mは「捨てない」と。現実的な答えです。普通の人はこれを選ぶのでは。
中間的なのはKで、「捨てたいが本当に捨てられるか分からん」という答え。うーむ。難しい。

ことごとくほとんどを捨て、ひとつのことのために生きるのは、死をはじめとする様々な恐れと戦わねばなりません。それらと相対する自信があるか、生き様をシミュレートできるかが、選択の要因として絡まってくるように思います。



お次はp137のダーク・ブランチ夫妻の会話。明らかに三流の絵を婦人は最初に見たときから素晴らしいと思っていたという。ストルーブの唇が震えたのはなぜでしょう。

彼は美術品に関して的確な鑑識眼をもちながら、自分の作品に関しては目を瞑っていました。自分の絵の価値に見当がついていたけれど、彼は幸せなのでした。妻がいたからこそ。
しかしその妻に明らかな同情を投げかけられ、自分の作品の評価が丸裸になってしまったことにショックを受けたのでは、という解釈に落ち着きました。

最後にp51「平凡な喜びには、どこか恐ろしいところがあるようにさえ、僕には感じられたぐらいだ」という文。

平凡であるがゆえの幸せには、どこに恐ろしさが含まれているのでしょう。
平凡であるということは、単調に日々が過ぎてゆくということ。ルーティンを繰り返す中で、段々と生きている実感というものを失うように感じる人は少なくないのでは。しかし激動の中に身をおくと、自身を破滅させることもあるかもしれない。平凡から外れる覚悟を、それぞれはどれほど持っているのでしょうかね。

この問題は、最終的には「人生を如何に過ごすべきか」という、至極根源的な命題にたどり着きます。危険でも己の欲求を貫き通すのか、自らの生をまっとうに過ごすのか。人によって違うはずです。


結局、「あんまり溜めすぎちゃダメよ、でもレ○プはいかん」という結論に相成りました。ちゃんちゃん。



当初はこんなに話が続くとは思っても見なかったのです。この本は取り立てて素晴らしいとはあまり思えなかったので。でも論点を拾い、そこから話を広げられるようになってきたのは、読書会を続けてきた中での収穫、といったところでしょうか。
さて、次回は久々の日本文学。ノーベル文学賞や芥川賞を獲った彼の作品の中から、『見る前に跳べ』を選出です。前日までには読んでおこうね!
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