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万朶会 繋げる読書会

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第十二回 ゴーゴリ 『狂人日記』他二篇

開催日時:2010/11/11 1300~1445 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:K


おはようございますこんにちはこんばんは。お初です。Kです。
第7回あたりからこっそり参加しています。現時点での参加者が法学部3名と工学部1名ということで、理系的視点からまた違った風を吹き込みたいところですが皆の知識に感心しきり、自分は遅刻とか飛行機の話とか遅刻とかばっかりしています。あとは遅刻とか。
本日はMが帰省のため1415に発たなければいけなかったので1230から開始予定だったのですが、私がすっかり失念していて結局1300から。全くもって面目ない。。
いやー、まとめるのがこんなに大変とは思わなかった。

というわけで19世紀前半に活躍したウクライナの作家、ゴーゴリ先生です。
今回私が担当することになったのも「ロシアだから」。まあ理由としては十分ですね。
所謂「ペテルブルグもの」3作、合わせても200余ページでしたがなかなかに話は弾み芸術論にまで膨らんでいきました。
ちなみに、このころ(19世紀)の作品にはペテルブルクが舞台のものが多く、モスクワやシベリアはWWⅡ以降にならないとあまり出て来ないそうです。


それでは本題に入っていきます。

「狂」この1文字なくしては今回の読書会は成立しません。なぜ狂うのか。如何に狂うのか。昼下がりの喫茶店に「狂」の字が飛び交うことと相成りました。

まずは表題作「狂人日記」を主軸に。

Mは本作の狂い方が好きだったとのこと。Yも、フォントまで狂っていく終盤の表現を恐ろしいと感じたということでした。
私としてはもう少し狂い方を一ひねりしてほしかったナァという感想を抱いたのですが、それはあくまで絵に描いたような「テンプレ通り」の狂い方をしているためであって、実際は結構ニヤニヤしながら「いいねえ、狂ってるねえ」と思って読み進めておりました。

そして話は一旦、主人公の役職からロシア帝国の官の構造へ。主人公はしがない九等官(所謂下級官吏)。ロシア小説では、四十代で九等官止まりというと典型的ダメな奴という描かれ方だそうです。
本作では(または「ネフスキイ大通り」でも)そんな主人公の視点から帝政ロシア官僚制の世界が垣間見えるわけですが、普通は「貴族」⇔「平民」という描き方が多いのに対して本作、というかロシア文学では官僚の貴族の中にも明確な階級、階層構造があります。
これとよく似ているのが実は平安貴族の構造なんじゃあるまいか、とはFの談。なるほど確かに、貴族間での権力争いの描かれ方は共通しているように思えます。惚れた腫れたばかり描かないのがロシア文学とは違うところだわな、というところでこの話はオチるのですが。

さて次に「外套」の話や文体のことからだんだんと「肖像画」の話へ。
Yは「肖像画」が一番好きな作品としつつも、内容は結構ステレオタイプかもねということでした。
ではそれなのに魅力が出てくるのはなぜか、というと言い回しの軽快さ、巧妙さがまず挙がりました(Yが例としてあげたのはp178「給料なんか~」のくだり、p192のl1など)。
ストーリーの古典さ(まあ古典だから当然ですが)と言い回しの面白さから「ラノベじゃねーか!」という発言も。
ストーリーに関しては、ロシアの政情からあまり好き勝手なことは書けなかったんじゃない?という話が出ました。言い回しについては訳者の手に因るものも大きいかも。
言い回しだけではなく、表現の秀逸さにも言及。絵の描写が非常にリアルで、恐ろしいという感想がまずYから出ましたがこれには皆同意といったところでしょうか。
呪いの絵ということで、「このページを読む者に永遠の呪いあれ(マヌエル=プイグ)」の話なんかも出たり出なかったり。

言い回しが秀逸という例を挙げていたらいつの間にか「狂人日記」へ戻り、犬の会話を日記にしている狂気で盛り上がりました。
犬の会話は主人公の妄想であるにも関わらずその中に主人公の外見を貶める記述がありますが、これは自己反省、思考の根底にある自虐(例として挙げられたのがKの泥酔時…)ではないのか、ということで落ち着きました。
そしていよいよ「狂う」という精神状況の核心へ。まずは「何が発狂のトリガーになったのか?」ということ。
冒頭で「鏡とでも相談してみたらいいんだ」という上司の発言があり、これが何かを仄めかしているように感じられます。
ですがやはり共通意見として「発狂のトリガーは明確には描かれていない」という結論に至りました(これは登場人物の生い立ちを詳細に描いた「飢餓同盟」とは異なる点ですね)。
これについての理由としては「描いても面白くないから」「面白くないし多作なのでそこまで練る暇もなかった」などが挙がりました。
ならばなぜ発狂した?という話に発展し、閉塞した役所の社会が原因じゃないだろうかというところで概ねまとまりました。
が、これとよく似た社会が実は日本の田舎町の社会ではないか、という説がFから飛び出し、「じゃあ現代日本で狂人日記書ける、というかもう誰か書いているんじゃないか!?」と大いに盛り上がる一同。
しかしそういった小説がパッとは思い浮かばない。現代日本では題材的に出せないのかもなあ、と落胆する我々。
石原某氏とかは結構トンデモないのを書いているらしいですが(完○な遊○とか)。

肖像画の第二部、主人公の父の話からロシア正教周りの宗教観、親子観(そもそもロシアには父称というものがあるので日本の親子観とは違う点が大きいはず)についてゆるりと話したあとは
本日2番目の山場かな?「肖像画」における「絵を文章にする」ということについて。
芸術の中で一番互換が効くのは文章である、という出発点。ではなぜ文章を使うと他の芸術を表現できるのか?文章は他と比べて高次か低次か?
絵をみて彫刻につながるか?彫刻は絵にするよね?といった問題提起に対して、色々と話が弾みます。
(当日は出てきませんでしたが、短絡的に考えると彫刻は3次元、絵画は2次元、文章は流れが一本あるので1次元。やっぱり文章は低次かな。高次のものをあらゆる視点から正確に射影できるという点でも。屁理屈チックですが。)
芸術の話になったので「ネフスキイ大通り」の〆も引っ張り出します。馬や料理番の対比は一見ピロゴーフとピスカリョーフの対比に見えて実は画家と女の対比なんじゃないか?という説や「だまされるな、審美眼を鍛えろ」というメッセージが出てきて、
時間も気にしつつではありましたがモリモリ盛り上がったのでありました。一目見て感覚的に批評するのではなくて、しっかり文章で批評しようね!

自然科学は演繹・帰納、芸術はそれを傍から弁証法、なーんて話も出ましたがちょっと自分の中でまだ考察が足りてない気がするのでボロがでないようにさらっと触れるだけにしておきます(ズルい)。



さってと、意気込んで書き始めたのに既に次回の読書会は終了。すいません。次回は11月18日につつがなく執り行われましたエンデ「モモ」。乞うご期待!
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