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万朶会 繋げる読書会

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第十七回 ハインライン 『月は無慈悲な夜の女王』

開催日時:2011/5/19 1700~1920 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:K


どうもこんばんにちは。お盆休みで一気に更新!!

ということでSFにも手を出してみようという今回のハインラインさん。
アシモフやクラークさんと並んでSFの3大巨匠と称される彼の作品を
実は工学部の私も読んだことがなかったという…わけでこの機会に読んでみました。

さて、「SF」というジャンルについてですが、初期作品はヴェルヌやウェルズといった
作家によって生み出されていました。その作品内における科学的考察をもっと厳密に、
そしてより最新のものを取り入れたのが所謂「ハードSF」です。
今回はそんな中でも月面世界といういかにもな場所が舞台の小説です。



で。まず、Fの怒り爆発「性描写があまりにも稚拙!絶対作者こいつDTだろ!
だからSFはなめられんだよ!(多少誇張しております)」
まあ確かに…女性の魅力を描くときにあまりにステレオタイプというか、
未熟なとこはあるぽいよねというみんなの同意。

SFは文学として未熟なの?(だったの?)という話にまでなっていきました。
まあSF黎明期の作品をSFが溢れている時代の我々が批判するのもアレですが、
高尚な内容よりも娯楽的な要素が強いのかなあ?というところでひとまず
決着したようです。

まあ士農工商犬SFってどっかのおじさんが言ってましたしね。

確かに他の設定もわかりやすく、ステレオタイプな民族観、適度に他を
外来語として取り入れている英語、地球の国のそのまま残り具合など、
悪く言えば安直、良く言えば非常にわかりやすい。
みんなの感想「エンタテインメントだな(ただしSEXが足りない)」


で、こういう話してるとやっぱし映画とラノベの話が出てくるんですよね。
「ハリウッド映画みたいでわかりやすいよね」
「映画を見てる感覚になるけど、そうなると想像の幅が狭くなっちゃう」
「600頁強の割には残らない、ラノベみたい」
「没入はしやすいと思うんだけどねえ」
「食い物はすごく旨そう!宮崎アニメみたいな」

んー。ひどい言われよう。エンタテインメントとしてはありなんだと思うんですが。
あとはハリウッドのバーンドカーンみたいな映画は大抵SFだったりするのも、
映画がパッと出てくる要因の一つだとは思ったり。
もちろん、映画が決して悪いわけじゃないんですが。


恒例付箋ターイム!!
M P494 タージマハルを壊す云々の掛け合い
 歴史のない月世界にとっては、歴史=権威であり、畏敬の念を抱いている。
 アメリカが皇居とか京都とかをぶっ壊さなかったのと同じ理由から。
 で、秀吉は朝鮮出兵のときにかまわずぶっ壊しちゃったので今に至っても
 ぐだぐだ文句を言われているのだね、という話を繰り広げました。


F まず、法律の多さは縛らないとどうしようもないアホタレの証である、と。
 で、この小説の月世界にはほぼ成文法がない!すごい!!
 苛酷な環境ではこうなる、というのはすごいなあ。という感想。
 法の前に環境に縛られてる(=自然法)からだろう、という考察も出たり。

 あと P266に「最近は子供をもらうのに色々と厄介な云々…」というところが
 ありますが、F曰く「何でこれをいきなりここで出すの?」という。
 確かに、「最近は…」という語り口と内容からは、百歳近くなった物語最後の
 主人公の姿が浮かんできます。ある意味、ネタバレ。 
 メタ視点による、ここで区切れよという作者のメッセージなのかなんなのか…

 もう一つ。P91から、計算機は生きているのか?という理論。
 思考はすなわち生なのか?人間ですら出生時の部分露出、全部露出という
 議論があったりします。今ノートを見返すと、「これは生きている?死んでいる?」
 という議論をした跡があるのですが、生ビールと生春巻は生きているらしい。


K 例によっていっぱい付箋貼りまくっちゃったんですが、その中でもコンピュータ・マイクの
 仕組みについての話。昔から人工知能の話が大好きな自分はここから暴走を始めました。
 ニューラル・ネットの話、人間の脳の話を延々と図解しながら。ノート汚ねえ。
 マイクは「自分でプログラムを書き換えられる」という設定がありますが、自分はこれがないと
 会話をできるような所謂「知能」が生まれるという設定は破綻してしまうと思っています。
 要するに人間の脳と同じで、インプットに対するアウトプット、そしてさらにそれに対する
 フィードバックが新たなインプットとして入ってくる。これの繰り返しで脳は学習を行う
 と思うのですが、その学習のためにはフィードバックに対してニューロンのつなぎ方を最適化
 していかなくちゃいけない。それがマイクの場合は「プログラムの書き換え」にあたると思うのです。
 ハインラインがそこまで考えていたかはわからないし、別の学説があるかもしれませんが。

 あともう一つだけ、ロケットエンジニアとしては月の重力のすべり台の話はとてもわかりやすく、
 面白かったです。今後の参考にさせていただきたい。


Y P147 「クカイ・モア」ってなんやろね。4人で考えたけど答えは出ず。
 P466 の自由と責任の話。自由ってなんだろね?「自由」の定義は「責任がある」
 という状態?ちなみにFは教授の言う無政府主義がきれいだね、なんてこぼしておりました。


さてさて、というわけで理系も文系も隔てなく色々な話をしましたが、最後に話したのは
唯物論について。私も大分唯物論的な話をしたのですが、安易な唯物論は思考停止であり
廃人への道である。という指摘が。科学的視点の考察ならまだしも、唯物論ありきの思想ほど
危険なものはないよね、と釘を打ってこの日はお開きと相成りました。


SFは最初の選書を全部やって一区切りの前にもう1作ありましたね。アンドロイドのあれ。
次は夏目漱石三部作です。そこはかとなく漂うもんじゃ焼きのかほり。
遅筆のKに叱咤激励を。できれば叱咤少なめでお願いします。
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第十五回 メルヴィル 『白鯨』

開催日時:2010/12/28 1900~未明 場所:F自宅
参加者:Y,M,F,K
文責:K


どうも。全国57兆のセガファンの皆さんこんばんは。みんなが忘れたころにひっそりと更新です。今回は岩波レンジャーレッドのくじらさんです。モームの世界十大小説にも選ばれている本作、なかなか…手強かった…

今回は忘年会を兼ねてFの自宅で酒を片手にやった訳でありますが、あまりの本編の長さと本筋(この小説の本筋って何だ)からの逸れっぷりも相まって、なかなかにgdgd感あふれる読書会と相成りました。うーん、これはこれでまた良し。


さて今回は私がチョイスしたわけですが、私の選書は悉く不評!悲しい!
選んだ動機は十大小説云々よりは鯨という生き物、それから捕鯨という文化への興味です。ちなみに今回のメンバー内ではM以外は鯨を食べたことがあるとのこと。うまいよね。特にベーコンね。自分が思うほどみんなは捕鯨という行為に対して強く興味を持っていないとのことでした。

でまあ軽く捕鯨談義。本編の通りアメリカも昔は捕鯨を盛んに行っていて、今はしていない、というかむしろ反対側にいることについて。アメリカ人は過去に反省したのではなく、捕鯨の必要がないから止めているという意見が出たのでした。一方で日本人は食に関してはうるさい所があるので、そう簡単には止められないと。まして現在行われてるのは生態調査のための捕鯨ですしね。

でセミクジラって背中が気持ち悪そうとか長いんだよ本編とか酔っ払いが管を巻きつつ本題へ。

まず、これは小説なのか?
「誰も知らなかったことを明らかにする」という点で立派に小説だろう、とはFの弁。しっかし脈絡がねーな、というのは共通意見としてありました。さらに「説明がくどい」「1冊でやれ」「長ったらしい」もうみんな言いたい放題…Wikipedia先生ですら「難解な作風」というご意見。そんな本作ですが再評価されたのはピンチョン先生が関わっているとかいないとか?


んでそれぞれの感想と面白かったところ。

K:神の存在を意識させるところが所々にあったのが印象的だった。神に歯向かうエイハブ、神に祈るスターバックなどなど…最後にみんな海に飲まれるのも示唆的である

M:エイハブが突っ込む所がかっこいいだけの小説でした。1つの目的に向かって邁進する姿はかっこいい!

Y:40章のみんなでどんちゃん騒ぎするところがよかった。ピップは気が触れた後のほうが良い味出してた
気が触れた人や子供の表現が良かった、物語の中でも重要な示唆になっている(下巻194~195pなど)

F:マルタ島の水夫…エロい!!! 海…怖い!!!あとはページ数で。
上269p→クイークェグ「ころす、とても、かんたん!」
中202p→「われわれが人生と呼ぶ~…」 世の中は冗談と断じてしまえる?
中281p→「大地に基礎を~」 これが世の正統主義の正体
上116p→「どこか滑稽な~」 滑稽の中にこそ美徳


とまあこんな感じでした。なんだかんだで皆ポイント見つけて読んでたみたいですね!!


さてここで説教くさいのになぜ小説として成り立っているのかなあ、という話。「場のコントロール」が上手いのかな、という説が出ました。つまり上手く小説のほうを向かせるように書いている、ということです。なかなか思い通りに行かない他人をコントロールして、自分のほうを向かせるのはかなり難しいと思います。その辺がさすが十大小説、といったところなのでしょうかね。


この辺で大分ネタは尽き、スーパーぐだぐだタイム。
外に買い物に行ったり、Yが腹の肉を見せたり、Yが義足責めとか言い出したり…なんなんすかこれ


最後に各々が勝手な二言三言感想を。「長かったね」「だるかったね」「魔の山よりは疲れなかった」「けど別種の大変さだった」「長かったけど面白かっ…長かった」「ピザが旨かった」「なかなかこういった大長編を読む機会はないからいいきっかけにはなった」



さてさて。というわけで長かったという感想ばかりになってしまいましたが白鯨編終了。
まだまだ更新回がいっぱいありますね…

第十四回 坂口安吾 『堕落論』

 開催日時:2010/12/23 1350~???? 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:M

最後の更新から一月以上経っていたということに驚愕しております。
その間何をやっていたかと言えば、第九回で述べられていたように、とある一人の作者を掘り下げて読み、その作者を紹介するといったことをしたり、『白鯨』がなかなか読み終わらず延期に次ぐ延期をしていました。
作者紹介の時にとっていたノートを見直してみると、○×ゲームをやったことくらいしかわかりませんでしたが、これは余談。

今回の題材は、坂口安吾の『堕落論』です。この本の選定理由は、僕の大学入学時に川上未映子らが選定した大学生の内に読んでおきたい50冊の本というのをセレクトしていたので、そこから題名だけ見て面白そうだと思ってチョイスした次第であります。

この坂口安吾ですが、Fは中学生の頃にもう手にとって読んでおり、このような文筆家になりたいと思ったとか。彼の自由な発想や行動はこの本に起因すると言っても過言でもないそうです。

さて、内容に入っていきましょう。
まずKは、「日本文化私観」のp70くらいに述べられている機能美が好きだそうです。不要なものが取り除かれ、必要なものが必要な場所に置かれている例として武器を取り上げていました。
この本で取り上げられてたものとして、小菅刑務所、ドライアイスの工場、軍艦を取り上げていましたが、ここでFは機能性だけでなく、大きいから美しいのであって、大きいものには無駄が省かれている、ということでした。

ここで、少し疑問に思ったのが、p68の聖路加病院との対比。聖路加病院に比べ、ドライアイスの工場はあまりに小さく、貧困な構えであったが、工場の緊密な質量感に比べれば、病院は子供の作った細工のようなものと書かれていること。健康の仮構がないのはわかるんですが。
あと、大きさにも郷愁を感じていたとしたら、文学における大きさって何だろう、ということを思ったりしました。

この後は、農学徒学生運動史と小林よしのりとの関連やら小林よしのりとKとの接点の話を間に挟みつつ、題名にもなっている「堕落論」について「堕ちる」とは何ぞや、という話へ。

「堕ちる」の反対は何か。
Yは現状から外れるということを、Kは救われるということを、Fはそんなものなく、堕落そのものが本質であり、堕ちるとは西洋から離れるということ日本に元々あったものに回帰するということでした。

そして、残念ながら僕は今回ここで所用のため退出。この後どんなことを話し合ったんでしょうか。

ここまでまとめてまた混乱し始めたので、Kに追記を託そうと思います。Kよろしく!



よろしくされました。Kです。更新は実に半年振りでしょうか…ホントスイマセン…
続きです。 え…メモに「おしゅうとめさん」とか「トルネコナツカシス」「メルトモテラホシス」とか書いてあって全く意味がわからないんですが…これも私が半年堕落した結果ですね。


さて。Yが続堕落論に言及して「この人人格を否定することは言わないよね」とのこと。そこから「安吾とは何なのか」論争開始。オプチミストなんだ、無理はしない性格、物事に対して「別にいいじゃん」といなす態度、等々が出た後…

F「俺はこいつから何を学んだんだ!?」

という発言。結論としては彼は勝手に生きて勝手に書いて材料を提供し、"あとは自分で考えろ"と言ってるんじゃないか。そんな話になりました。


んで話は書中で語られている文学論、というか芸術論へ。
現代の文学って、映画にしやすいけどそれっていいのかなあ?という問題提起。例えば「私は海を抱きしめていたい」とかを映画にできますか?なんてことを話しながら、果たして文学と映画は相互互換性のあるものなのかということについて頭を悩ませました。

例えば映画を例に挙げると、音楽と演劇とシナリオという文学とがかけ合わさってできた物で、(あくまでも数学的には!)高次になってしまう(高尚と言ってるんじゃありません)。というか、礎があってその上に積み重なってピラミッドになっていくイメージかな?
ここで大事なのが、上に行けば行くほど広大さ、言い換えると自由度が減っていってしまうということ。
次元が大きくなって自由度が減れば減るほど、縛り、呪いは増えていくばかり。さらには今あるものを組み合わせてネオ忠臣蔵とかエイリアンvsプレデターvs大石蔵ノ助とかは作れるかもしれないけど、礎である文学が尽きたときに何も作れなくなって「詰んで」しまう。であるから、"純粋な文学"は滅びては困る、そんな話をしました。ノートに残る図を見るに、そういうことなのでしょう(一応私個人の意見ではなく皆で話したことのまとめです)。

だから映画ばっかり見てないで文学のような礎となる芸術に親しみましょう、んで万朶会はそのきっかけとして非常に有用であるよね、というなんともすっきり自画自賛な感じでこの日は終わりました。うん。終わったはず。半年前だけど覚えてるもん。


万朶会ではこの手の芸術論というかその類が、まあみんな映画とか漫画とか好きやしよー出ます。面白い。すごく。

というわけで書を読もう!街には出ない!



これの次はしろいくじらさん!○ー○ェパードも真っ青!乞うご期待。

というか今更の更新でマジですいませんでしたああああああああああああああああ

第十三回 エンデ 『モモ』

開催日時:2010/11/18 1331~1541 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:Y


やあやあ、どうもです。Yです。
今回はドイツの児童文学作家・エンデから、『モモ』をチョイス。学校で読まれることも多い本のようですね。僕は学校で見かけた記憶がありませんでしたが。
この作品は1972年発表ということで、読書会の中で取り扱うものとしては大分新しい部類に入ります。その分問題とされる命題も僕達に身近で重要なものとなり、大いに盛り上がりました。

(ちなみにこの作品、映画「サマーウォーズ」内でカズマがいた納屋にある蔵書の中に紛れ込んでいたというトリビアがあったりします。ファーブル昆虫記とかと並列で並んでます。)


では本題に。
一番話題に上ったのは、「時間の使い方」に関してでしたね。

作中に現れる「時間貯蓄銀行」に倹約した時間を預けていた人々は、ただ時間をあとに残すということだけを考えるあまり、次第に現在の余裕がなくなるという皮肉な結果に陥っています。ここまで顕著ではないにしても、現代人は効率化を推し進めるあまりに余裕がなくなり、自らの首を絞めてしまっているという側面を持っているように思います。
では時間の倹約って、何のためにやるものなのでしょう。

Mはベストの時のために時間をとっておけるのならとっておきたい、ということでした。彼は時間にセコい人だと自分で言っていました。
ベストの時のために時間が欲しい、というのは精神と時の部屋に入って修行する歴代サイヤ人を彷彿とさせるものがあります。あったらいいのに、と思うのは確か。

Kは時間の余裕が精神の余裕と連関している点に言及。地獄のミサワを見ている余裕があるから俺は精神的に余裕があるんだ、ということのようです。Fから「それこそ時間の無駄でしょ(笑)」と突っ込まれていましたが。
地獄のミサワ、見ました。確かに無駄そうです。ジョニーデップ似の俺が言うんだから間違いry

Fは時間を倹約する、という行為の意味するところについて掘り進めました。この行為の表わすことには
(i)時間を無駄にしない
(ii)余った時間を有効に活用する
の二通りがあると説き、(ii)の考えの方が望ましいのではないか、と述べました。

作中に登場する時間を奪われた人々には、時間を倹約する目的が掴めないのです。(i)の思考です。例外としてベッポはモモを救うという目的のために時間を犠牲にしましたが、これは彼が時間に関して何らかのはっきりとした意識を持っていた証でしょう。

物語の舞台となった高度な文明世界では、社会活動を行う中である程度時間に制約がかかるのは当たり前。
その中で時間を使うのが上手い人とは、果たして「無駄な時間をつくらない」人物なのでしょうか。

そもそも、「無駄」という概念を見出すことができるのは概して過去に対してです。例外として「生きていても仕方ない(=未来が無駄)だから自殺する」という例もFから挙がりましたが。
無駄な時間を「当初考えていたある目的を達成するために寄与しなかった時間」と定義すると、当然自分の通ってきた時間軸の中に隙間が出てきます。
しかし、果たしてこれを「無駄」と切り捨ててしまってもいいのでしょうか。

ここでFが最近読了したマックス・ヴェーバー「職業としての学問」から無限性に関しての記述を引いてきました。
彼曰く、人は無限性の中でしか生きられないがゆえに、終着的な停止である死について考えることは意味はないかもしれない、という内容の記述があったそうです。
「足るを知る」、つまり満足することを知らなければ、人は飽くなき欲求に駆られ続けることになる、と。
世界が無限であることと対比して、僕達の命は有限です。この手に掴めない時間を蓄えようという夢幻に囚われた人々は、単なる欲望の永久機関として彷徨わざるを得なくなります。

「無駄」という概念が出てくるということは、自分の生きる時間全ての時間軸がある少数の目的にしか着目していないことを示しているのではないでしょうか。
余った時間を有効活用するということは、つまり単線ではない沢山のやりたいことの中のどれかに時間を役立てることと言いかえることができるはずです。生命維持や勉学・研究のため、はたまた趣味や恋愛のため。

それらの割合を決定するのは自分自身ですが、自分がどう時間を使うのか、ということは「生きるこいうこと、そのもの」(p83)にかかってくるのです。この引用部分はMの着目ポイント。「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしている」(p106)ということとも繋がっています。


無駄な時間なんてない、と言うのは簡単ですが、自分でしっかり点検しないことには中々分からないものです。
過去を無視しすぎて現在や未来に生かせないことで、更に多くの時間が無駄になっている可能性も検討する必要があるように思います。


余暇の過ごし方に関しての話をしばらくした後、次の話題に。
よく言ってしまいがちな、「時間がない」という言葉。そう感じてしまうのは、何故なのでしょう。

はっきりしておくと、時間は「ある」のです。僕がこうして結構時間をかけてブログに文をまとめているのも、時間があるからそうしているのです。時間がないならそもそも四人の日程を合わせてわざわざ読書会なんて開かなかったかもしれない。

これも目的意識の問題。時間がないから何かができないのではなくて、何のために時間を使うのかを確定しきれていないから時間をスライドして整理できないだけ、ということが案外多いのでは。
Fがピックアップした「虹の七色」(p236)が見えるか見えないか、ということはここに関係しています。時間がないと言っている人にはないし、あると言っている人にはある。それだけのことです。

特に若いうちは、睡眠時間を少々削っても何とかなるように身体はできています。そこまでしてやりたいことか、もしくは必要のあることか。そこでコントロールがはたらき切らないと、寝過ごして講義に遅刻、とかいう事態になるのです。
また、ビジョン不足の半端な状態で目的が達成されてしまうと、ジジのように後悔する人が出てきます。「かなえられるはずのない夢」(p307)が達成されると、今度はその不完全な夢の維持で手いっぱいになる可能性が出てきます。目標に変化するまで確固たるものになっていない夢は、叶えられると永遠に果てない喪失の恐怖の抑止の欲求へと変化する危険をはらんでいるのです。

そういっただらだらしたスケジュールとは逆に、偶然性を全く省いたスケジュールを立てるとなると、時間の偶然性を否定するとともにすぐさまスケジュールに軋みが生まれてきます。そういう時間計画、果たして楽しいでしょうか。「完全無欠」のビビガールの人形を相手にしたモモ(p131)の反応からも、「完全」の持つ意味の一面を推測することができましょう。

人の目的もそれぞれですが、それに至るアプローチも人それぞれです。幸せを得るために恋愛に走る人もいれば仕事を突き詰める人もいて、質素倹約に努める人も、女王様に鞭で叩かれる人もいます。
もしかしたら、時間を切り詰めることに快感を感じる倹約エクスタシー人種もいるかもしれません。
その人がいいなら、それでいいのです。一個人が他人の生き方をどうこう強制することが大きな無駄です。
理解は示すけど俺は関係ないよー、という見方はY,F間で共通していた模様。


Kは他にp317の「もしほかの人とわかちあえるのでなければ~」をチョイス。利己的に自分の財を抱えがちな人々にはぐさりと来る言葉。
流れなければ腐ってしまうのは、お金でも知識でも同じことですね、ということ。フローの理論とか「神の見えざる手」の前提条件についても絡めて話しました。



今回も中々折り入って触れてこなかったことに突っ込めて、非常に有意義な読書会となりました。
次回は作家研究の発表会。それぞれ担当している作家について語れるよう、読み込みましょう!

第十二回 ゴーゴリ 『狂人日記』他二篇

開催日時:2010/11/11 1300~1445 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:K


おはようございますこんにちはこんばんは。お初です。Kです。
第7回あたりからこっそり参加しています。現時点での参加者が法学部3名と工学部1名ということで、理系的視点からまた違った風を吹き込みたいところですが皆の知識に感心しきり、自分は遅刻とか飛行機の話とか遅刻とかばっかりしています。あとは遅刻とか。
本日はMが帰省のため1415に発たなければいけなかったので1230から開始予定だったのですが、私がすっかり失念していて結局1300から。全くもって面目ない。。
いやー、まとめるのがこんなに大変とは思わなかった。

というわけで19世紀前半に活躍したウクライナの作家、ゴーゴリ先生です。
今回私が担当することになったのも「ロシアだから」。まあ理由としては十分ですね。
所謂「ペテルブルグもの」3作、合わせても200余ページでしたがなかなかに話は弾み芸術論にまで膨らんでいきました。
ちなみに、このころ(19世紀)の作品にはペテルブルクが舞台のものが多く、モスクワやシベリアはWWⅡ以降にならないとあまり出て来ないそうです。


それでは本題に入っていきます。

「狂」この1文字なくしては今回の読書会は成立しません。なぜ狂うのか。如何に狂うのか。昼下がりの喫茶店に「狂」の字が飛び交うことと相成りました。

まずは表題作「狂人日記」を主軸に。

Mは本作の狂い方が好きだったとのこと。Yも、フォントまで狂っていく終盤の表現を恐ろしいと感じたということでした。
私としてはもう少し狂い方を一ひねりしてほしかったナァという感想を抱いたのですが、それはあくまで絵に描いたような「テンプレ通り」の狂い方をしているためであって、実際は結構ニヤニヤしながら「いいねえ、狂ってるねえ」と思って読み進めておりました。

そして話は一旦、主人公の役職からロシア帝国の官の構造へ。主人公はしがない九等官(所謂下級官吏)。ロシア小説では、四十代で九等官止まりというと典型的ダメな奴という描かれ方だそうです。
本作では(または「ネフスキイ大通り」でも)そんな主人公の視点から帝政ロシア官僚制の世界が垣間見えるわけですが、普通は「貴族」⇔「平民」という描き方が多いのに対して本作、というかロシア文学では官僚の貴族の中にも明確な階級、階層構造があります。
これとよく似ているのが実は平安貴族の構造なんじゃあるまいか、とはFの談。なるほど確かに、貴族間での権力争いの描かれ方は共通しているように思えます。惚れた腫れたばかり描かないのがロシア文学とは違うところだわな、というところでこの話はオチるのですが。

さて次に「外套」の話や文体のことからだんだんと「肖像画」の話へ。
Yは「肖像画」が一番好きな作品としつつも、内容は結構ステレオタイプかもねということでした。
ではそれなのに魅力が出てくるのはなぜか、というと言い回しの軽快さ、巧妙さがまず挙がりました(Yが例としてあげたのはp178「給料なんか~」のくだり、p192のl1など)。
ストーリーの古典さ(まあ古典だから当然ですが)と言い回しの面白さから「ラノベじゃねーか!」という発言も。
ストーリーに関しては、ロシアの政情からあまり好き勝手なことは書けなかったんじゃない?という話が出ました。言い回しについては訳者の手に因るものも大きいかも。
言い回しだけではなく、表現の秀逸さにも言及。絵の描写が非常にリアルで、恐ろしいという感想がまずYから出ましたがこれには皆同意といったところでしょうか。
呪いの絵ということで、「このページを読む者に永遠の呪いあれ(マヌエル=プイグ)」の話なんかも出たり出なかったり。

言い回しが秀逸という例を挙げていたらいつの間にか「狂人日記」へ戻り、犬の会話を日記にしている狂気で盛り上がりました。
犬の会話は主人公の妄想であるにも関わらずその中に主人公の外見を貶める記述がありますが、これは自己反省、思考の根底にある自虐(例として挙げられたのがKの泥酔時…)ではないのか、ということで落ち着きました。
そしていよいよ「狂う」という精神状況の核心へ。まずは「何が発狂のトリガーになったのか?」ということ。
冒頭で「鏡とでも相談してみたらいいんだ」という上司の発言があり、これが何かを仄めかしているように感じられます。
ですがやはり共通意見として「発狂のトリガーは明確には描かれていない」という結論に至りました(これは登場人物の生い立ちを詳細に描いた「飢餓同盟」とは異なる点ですね)。
これについての理由としては「描いても面白くないから」「面白くないし多作なのでそこまで練る暇もなかった」などが挙がりました。
ならばなぜ発狂した?という話に発展し、閉塞した役所の社会が原因じゃないだろうかというところで概ねまとまりました。
が、これとよく似た社会が実は日本の田舎町の社会ではないか、という説がFから飛び出し、「じゃあ現代日本で狂人日記書ける、というかもう誰か書いているんじゃないか!?」と大いに盛り上がる一同。
しかしそういった小説がパッとは思い浮かばない。現代日本では題材的に出せないのかもなあ、と落胆する我々。
石原某氏とかは結構トンデモないのを書いているらしいですが(完○な遊○とか)。

肖像画の第二部、主人公の父の話からロシア正教周りの宗教観、親子観(そもそもロシアには父称というものがあるので日本の親子観とは違う点が大きいはず)についてゆるりと話したあとは
本日2番目の山場かな?「肖像画」における「絵を文章にする」ということについて。
芸術の中で一番互換が効くのは文章である、という出発点。ではなぜ文章を使うと他の芸術を表現できるのか?文章は他と比べて高次か低次か?
絵をみて彫刻につながるか?彫刻は絵にするよね?といった問題提起に対して、色々と話が弾みます。
(当日は出てきませんでしたが、短絡的に考えると彫刻は3次元、絵画は2次元、文章は流れが一本あるので1次元。やっぱり文章は低次かな。高次のものをあらゆる視点から正確に射影できるという点でも。屁理屈チックですが。)
芸術の話になったので「ネフスキイ大通り」の〆も引っ張り出します。馬や料理番の対比は一見ピロゴーフとピスカリョーフの対比に見えて実は画家と女の対比なんじゃないか?という説や「だまされるな、審美眼を鍛えろ」というメッセージが出てきて、
時間も気にしつつではありましたがモリモリ盛り上がったのでありました。一目見て感覚的に批評するのではなくて、しっかり文章で批評しようね!

自然科学は演繹・帰納、芸術はそれを傍から弁証法、なーんて話も出ましたがちょっと自分の中でまだ考察が足りてない気がするのでボロがでないようにさらっと触れるだけにしておきます(ズルい)。



さってと、意気込んで書き始めたのに既に次回の読書会は終了。すいません。次回は11月18日につつがなく執り行われましたエンデ「モモ」。乞うご期待!
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