忍者ブログ

万朶会 繋げる読書会

RSS TWITTER RssTwitter

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

第九回 大江健三郎 『見るまえに跳べ』

開催日時:2010/10/03 1830~2050 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F 
文責:F


はい出ました,ノーベル文学賞作家・大江健三郎でございます。川端康成は第一回で取り上げたので,これで日本のノーベル文学賞受賞者は一度ずつ扱った事になります。内容の割に読みやすい彼ですが,視点と切り口の鋭さは流石と言った所,時間があっという間に過ぎていく今回の読書会……

本題に入る前の議論として,或る作家を「読んだ」と言える事の条件が語られた。
これは,今回の課題図書に関して,読めば「大江を読んだ」と(長編例えば『芽むしり仔撃ち』等を読んだとの条件付きにしても)言えるだろうという所から始まってしまった話で,では我々は誰を「読んだ」と自信を持って言えるのか,と。実際片手で足りる程度であり,若しくは一人も挙がらない程度であり,これはまずいという事で,今までの読書会で維持してきた読書の幅を広げるスタイルではなく一人の作家を掘り下げて読むという手法にも挑戦してみようではないかと結論された次第。

今回の参加者はY,M,Fの三人で,それぞれ中島敦・梶井基次郎・永井荷風について作家研究に挑むことになりました。Kについては後日決めてもらいますが,次の読書会のまた次の日程で発表を挟む算段であります。暇だなぁ。


では本題に入りましょう。
――――――――――――――――――

短編集なので,着眼点も上手く分散された感じであります。


まずMから。

『下降生活者』 p.346 l-12
そのとき僕自身も感動していたのである。


Mは下降生活者の主人公に最初から強い興味を持ったという。それは,嘘で塗り固めた体裁を貫くという,誰もが一度は想像するがその難しさ辛さに諦めるであろうことを実践している点を中心とした関心で,そこまでブッ飛んだ人間が『同性愛』をトリガーにして築き上げた虚構を崩壊させるというのが面白いと感じた点。

一同「お前性格悪いわ!」

他者への破滅願望がMはかなり強い。自己破壊欲求に関しても猫町の回で露呈した訳で,Mは全体として猜疑心が突き出ている印象。面白いからそのままでいいけどせめて内輪では成功を祈ってくださいとここで伝える。

不完全なものが完全を目指し頓挫する滑稽さを描いた作品はよく見るが,その逆・完全な者が不満を望むというのはなかなか新鮮だった,とはYの弁。完全を装っても人はそうではないので,まま思う所に任せているのが一番で,肩肘張る事は少ないに越したことは無いのでしょう。



続いてY。

『鳩』 p.121 l-14
「ねえ,鳩のこと黙っていて」


この辺から僕は殆ど自分の話した事しか覚えていない。しかしひとまず。
Yは逆説の滑稽さについてここで取り上げた。それは,自分が悪い事をして当然叱責されるべき立場にあるにも拘らず,「混血」は自分を許すとか許さないとかではなく,なんと自分に対し赦しを求めた,という描写における感想。混乱する主人公,である。

僕はここで p.122 l-1 の解釈を求めた。突然の怒りは理路整然としているのか否か。論理的整合を認めるとすれば,それはどういうレトリックで説明されるのか。
結論からすると論理的整合があり,それは p.124 l-2 で説明できる。つまり,当然自分を罰するべき存在は脚の骨を折った混血その人だけであり,それは道徳上懲罰を与える義務でもある筈で,義務に反する振る舞いを主人公は許せなかったのではないか,と言う。そんな正義感強いなら少年院入ってるなよ主人公……と一同は思うのであった。

話を戻そう。
もし我々が主人公の立場であったら,「黙っていて」という混血の要請を受け容れるかどうか。一同,受け容れる。ラッキーと思いさえする。ここに,他者の評価に如何に乗るかという態度,そして外部評価への依存という話題が出てくるのである。
主人公は青年期の入り口にあり,所謂「自己の確立」には程遠い状態である。一方読書会メンバーは大分もうスレている。周囲の評価が気にはなれど,それにべったりつく必要も無く,むしろ利用する姿勢さえ見られる。外部評価と自己評価に乖離があればそれを受け容れて,あとは自分がどうあるか,そこでやっと問題意識が発露するといった具合。少年期は,過渡期は,おそらく他者の眼に強いウェイトを置かざるを得ず,よって不安定であり,更に(悪い事には)そこに正しさを求めるものなのだろう。
これからの正義の話をする前に,評価者と対象をしっかり弁える必要があるのではなかろうか,と。自分を外に合わせるにしろ,自己への評価を正当化させるにしろ,お好きにどうぞ。しかしその必要は本当に有るのだろうか,という所まで見て話をしたい。



ということで僕の着眼点です。

『見るまえに跳べ』 p.142 l-14~16 
ぼくはうなだれた。ぼくの指を良重のやわらかく汗ばんでいる掌がとらえた。<中略>僕は恥辱にまみれてますますうなだれた。


何でってまずエロイです。握手だけで,性を感じさせる,その気にさせる,これはなかなかできない,しかし場数を踏んでいればボンヤリとはなんとかなる。握手のみならず身体の接触は全てそうなるようにできている気がする。しかしそれは副次的な話。

問題としたかったのは「なぐさめの技法」。月と六ペンスの回で,ストルーブに対し妻があからさまな慰言で彼をひどく落胆させる場面がありましたが,要はなぐさめってものは受け取る側のメンタリティ,正確にはプライドの問題になってくる。跳ぶ前に着地点を見付けていなければ,それはただの蛮勇・馬鹿なのであって褒められたもんじゃない。落ち着ける場所を見つけるには,自尊心の檻を構成する鉄棒の間隔を或る程度広げるなりする必要がある訳で,即ち跳ぶ前に溺れろと僕は思ったのであります。

受容が欠けているのは生き辛いです。そんな経緯でgive&takeの話題にも飛びましたが,ここで特筆すべきはYのストイックさ。彼はgive:take=0:0でやっているそうです。早死にするぞ。ちなみにMはgive<take,僕はgive>takeでした。

なんでこんな話をしたかというと最近重い風邪に掛かって,頼る強さが欲しいなと思ったからでした。病気って怖いね。でも溺れる体験が少しは出来たんじゃないかと思います。依存がかっこ悪いというのはズレてるんじゃないかと考え,話を振ってみましたが,覆す所までは行けなかったようです。今回分かったのは僕とYがやはりひどく似ているなという事でありました。



○○文学を語る,という形式からは最近大きく外れた読書会進行ですが,個人的にはこの傾向でよいのではないかと思います。学問として文学的にやるのであれば,それも楽しそうですが,僕はあくまで本を通じた各人の意見・思想に関心をもって万朶に臨んでいます。要は君たちおもしろいからもっとおもしろい事やろうよ,というノリでござるよ。

次回はピンチョン大先生,『競売ナンバー49の叫び』です。そろそろ彼が出現してもいい頃ですが,みてるのかな。みてたら感想を送ってもらえると,話題が増えて面白いと思うのだけど。とまれかくまれ,日時未定ではありますが,また次回お会いしましょう。

PR
Comment
name
title
color
mail
URL
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
Clear