忍者ブログ

万朶会 繋げる読書会

RSS TWITTER RssTwitter

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

第十一回 安部公房 『飢餓同盟』

開催日時:2010/11/4 1310~1530 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F
文責:Y

書くのが遅れました。第十二回目が行われた日に書いております。
徐々にペースを戻しつつきっちり翌週に行われた万朶会。今回の課題図書は『壁』で芥川賞を受賞した阿部公房から、『飢餓同盟』をチョイスです。

大まかに説明すると主人公(として良いと思われる)花井が徐々に狂っていき、その途上で数人の周りの人々を巻き込んでゆくというものでしたね。さぞやMのお気に召す物語だろうとY,Fはにんまりしていたのですが、Mはなかなか面白がって読めなかったそう。

何故か、と二人が半ば詰問する形に。花井に感情移入して読んだのが原因のようです。
感情移入してしまったのはなぜだったのでしょう。うんうんと悩んだ後でも正確な理由らしきものは靄の中でした。


(第十二回で同種のように思われる小説『狂人日記』について議論したということもあり、振り返って私論をひとつ。)

『飢餓同盟』の花井と『狂人日記』内の人物に共通する点があるとすれば、それは最終的に両者が狂ってゆくところなのですが、それまでの過程の描写に大きく差があります。
前者では花井の生い立ちから家庭の事情、過ごしてきた境遇などが相当なページ数を掛けて語られてきたのに対し、後者は人物のそれぞれが狂うに至った経緯に関しては多少の説明があるものの、各人の性向や過去に関してはさらりと描写がある程度か、または全く描写がありません。
また、前者は花園への復讐、ゆくゆくは国家の転覆という、実現可能性は著しく低いながらも「ありえなくはない」範囲での行動であったのに対し、後者は一枚の絵の影響で人々の性質が豹変したり犬が喋ったりと、些か現実に起こりうるとは考えにくい設定が登場してきます。
飢餓同盟の方が話としてはより私達の置かれた状況に対して卑近に感じられた分、また『狂人日記』の方がより物語的で現実とは切り離して作品を読み取ることができた分、Mが花井に感情移入をし、チャルトコーフの転落ぶりを読んでもどうともないと感じるに至ったのでしょうか。
第十二回の万朶会においても「小説は一番お膳立てに手間のかかる芸術だ」という話が出たように、長々と原因とされる記述があった方が、感情移入を行いやすくなるのかもしれません。

と、ここまで書いておいてMが「最初の方を読んだ時点からもう共感していた」という言葉を思い出すという。あれれ、よく分からなくなった。最初から共感させるには、もっと何か導入の段階ではっとさせる何かがあったのでしょうか。
コメント部分で考えの補足をしてみては如何でしょう、Mさん。記録者だけが読み解くよりも、広げた方が思考が深まるでしょうし。


さて、本題に戻ります。続いて僕の着眼点を。

花井の狂い方ですが、全く脈絡がなかったのではないように思われます。というよりむしろ、壮大な目的を考えるうえでの思考があまりに稚拙だっただけでしょう。人間計器・織木という切り札を当てにするあまり、その他の詰めが呆れるほど甘くなっています。その上ヒロポンの常習者だった花井の思考にはただでさえ脆かった脈絡を完全に失い、終いには森の手によって精神病院に収容されるまでに至ります。流れからしてそうなるだろうな、と読者に予想させる描き方です。

感情移入という点では、僕は織木に寄り添って読んでいました。
織木は最後まで花井に寄り添い、彼の理解者であろうと努めていました(p209参照)。共に折り重なって崩れるうち、一方を理解しようとする側がもう一方の手によって貶められる、という構図もまた一種の型であるように考えても良いと思います。ごく最近の例で言うと、湊かなえ『告白』の中に出てくる男子生徒と女子生徒にも同種の関係が見られます。ここで現代小説の話を持ち出すとなんだか安っぽくなってしまいそうなのですが、テンプレートが現在も使いまわされているという意味で、ひとつ。
ちなみにこの二作中に共通するのは、互いの組がその身独りで負うには重い過去を背負い、打ちひしがれているという点。そして互いに同様の境遇にあるということに何らかの絆を感じている点。負の絆の生む苦々しい結末の物語には、何とも言われぬ独特の読後感が現れています。この物語も、そのひとつ。

もしもこれから互いに寄りかかれる関係を築けるのならば、それが負の要因に依らないことを祈るばかりです。何か重くなった。


続いてFの着眼点。花井の尻尾についてです。
これは何を象徴しているのか、という点で議論を行いました。
先祖返りか、はたまたひもじい様のもとに生まれたという異端の象徴か。
一旦は切り落とした尾なのですが、終盤、花井が明確に狂った時には(少なくとも花井の意識下では)立派になって再び生えてきます。
これはどうしたことなのでしょう。よく分からないまま議論が流れてしまいました。
先祖返りだとすると、猿の時代に尻尾が持っていた大きな役割はバランスを取ること。それを切り落としたことで花井からバランスを取るレーダーのようなものが失われ、徐々に周囲とのずれが現れてきたのかもしれません。


あと藤野家のネーミングがひどいよね、とか色々面白い話もしていたはずなのですが、あまり細部は思い出せず。
今回はこれにて終了、といたします。


次回は(もうやってしまったのですが)ロシア小説の父・ゴーゴリの『狂人日記』、そしてその次はドイツの児童小説家エンデの『モモ』です。そのまた次はそれぞれの作家研究の発表会、そしてメルヴィル『白鯨』が控えています。なかなか手強いので、今のうちに地道に進めておきましょうね。
PR
Comment
name
title
color
mail
URL
comment
pass   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。
追記:尻尾について。
ツイッターで心情垂れ流してるうちに花井の尻尾についての考えがちょっと浮かんだので、追記してみます。初めての試み。

尻尾は、ふつう「人間」には必要なく、生えてこないものです。進化の途上で要らなくなってしまったのでしょう。先祖返りなのかもしれません。生まれた時から花井に尻尾が生えていた理由に関しては、未だによく理解できていません。

花井は、最初は自分が「人間ではないもの」としてカテゴライズされるのを嫌がっていた。自分が他者と異なっているのを自分で認めたくない、他の人と一緒にでいたい、同じ「人間」ならば好きな人とも上手くなじめるに違いない、と考えて、昔の花井は尻尾を切断した。そうぼくには思えました。
でも、それでよかったのだろうか、という意識も花井の中にはずっと残る。だから傷口がいつまでも疼いて、膿が出る。それを恨みながら、でも花井は悩み続けている。一体僕は誰なのだろう、尻尾が生えていた自分はどういう存在なのだろう、と。他者と同一の存在でありたい、でもそれは本当に必要なことなのか、という二面性ができているのです。

彼は、途中から復讐心をむくむくと心の中で育てていくとともに、「人間ではないなにか」になろうとして、熱に浮かされたように一つの目的にすがりつくようになったのではないでしょうか。復讐しか自分には道がない、それさえ遂げれば自分は「なにか」になれるのだ、と(半ば狂信的に)信じて。

最後に花井に立派な尻尾が生えたのは、花井がその「なにか」になれた/なってしまったことを象徴している、と考えます。自分は他のどの人とも違う存在なのだ、そういう存在になってしまったのだ、という自認の証です。実際、花井は到底健全な人間とはいえない存在になってしまいました。
花井も心のどこかでそれを理解していて、だから尻尾が生えても森医師に手術を依頼しに行った(p259)。そこには、まだ「人間」でいたい、という花井の悲痛な懇願が読み取れたように思います。

どんなになにかになろうとしても人間なんです、結局。自分は結局人間なのだ、変に飾り立てても自分の存在はそう簡単に変わらないのだという、そこをまず受け容れることができないと、最終的には耐えられなくて狂ってしまう。読んでて花井にちょっと感情移入してきた。複雑な気持ち。

という感じ。あくまで個人的な読みの追伸として。
Y 2010/11/26(Fri)02:05:09 編集
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
Clear