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万朶会 繋げる読書会

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第十三回 エンデ 『モモ』

開催日時:2010/11/18 1331~1541 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:Y


やあやあ、どうもです。Yです。
今回はドイツの児童文学作家・エンデから、『モモ』をチョイス。学校で読まれることも多い本のようですね。僕は学校で見かけた記憶がありませんでしたが。
この作品は1972年発表ということで、読書会の中で取り扱うものとしては大分新しい部類に入ります。その分問題とされる命題も僕達に身近で重要なものとなり、大いに盛り上がりました。

(ちなみにこの作品、映画「サマーウォーズ」内でカズマがいた納屋にある蔵書の中に紛れ込んでいたというトリビアがあったりします。ファーブル昆虫記とかと並列で並んでます。)


では本題に。
一番話題に上ったのは、「時間の使い方」に関してでしたね。

作中に現れる「時間貯蓄銀行」に倹約した時間を預けていた人々は、ただ時間をあとに残すということだけを考えるあまり、次第に現在の余裕がなくなるという皮肉な結果に陥っています。ここまで顕著ではないにしても、現代人は効率化を推し進めるあまりに余裕がなくなり、自らの首を絞めてしまっているという側面を持っているように思います。
では時間の倹約って、何のためにやるものなのでしょう。

Mはベストの時のために時間をとっておけるのならとっておきたい、ということでした。彼は時間にセコい人だと自分で言っていました。
ベストの時のために時間が欲しい、というのは精神と時の部屋に入って修行する歴代サイヤ人を彷彿とさせるものがあります。あったらいいのに、と思うのは確か。

Kは時間の余裕が精神の余裕と連関している点に言及。地獄のミサワを見ている余裕があるから俺は精神的に余裕があるんだ、ということのようです。Fから「それこそ時間の無駄でしょ(笑)」と突っ込まれていましたが。
地獄のミサワ、見ました。確かに無駄そうです。ジョニーデップ似の俺が言うんだから間違いry

Fは時間を倹約する、という行為の意味するところについて掘り進めました。この行為の表わすことには
(i)時間を無駄にしない
(ii)余った時間を有効に活用する
の二通りがあると説き、(ii)の考えの方が望ましいのではないか、と述べました。

作中に登場する時間を奪われた人々には、時間を倹約する目的が掴めないのです。(i)の思考です。例外としてベッポはモモを救うという目的のために時間を犠牲にしましたが、これは彼が時間に関して何らかのはっきりとした意識を持っていた証でしょう。

物語の舞台となった高度な文明世界では、社会活動を行う中である程度時間に制約がかかるのは当たり前。
その中で時間を使うのが上手い人とは、果たして「無駄な時間をつくらない」人物なのでしょうか。

そもそも、「無駄」という概念を見出すことができるのは概して過去に対してです。例外として「生きていても仕方ない(=未来が無駄)だから自殺する」という例もFから挙がりましたが。
無駄な時間を「当初考えていたある目的を達成するために寄与しなかった時間」と定義すると、当然自分の通ってきた時間軸の中に隙間が出てきます。
しかし、果たしてこれを「無駄」と切り捨ててしまってもいいのでしょうか。

ここでFが最近読了したマックス・ヴェーバー「職業としての学問」から無限性に関しての記述を引いてきました。
彼曰く、人は無限性の中でしか生きられないがゆえに、終着的な停止である死について考えることは意味はないかもしれない、という内容の記述があったそうです。
「足るを知る」、つまり満足することを知らなければ、人は飽くなき欲求に駆られ続けることになる、と。
世界が無限であることと対比して、僕達の命は有限です。この手に掴めない時間を蓄えようという夢幻に囚われた人々は、単なる欲望の永久機関として彷徨わざるを得なくなります。

「無駄」という概念が出てくるということは、自分の生きる時間全ての時間軸がある少数の目的にしか着目していないことを示しているのではないでしょうか。
余った時間を有効活用するということは、つまり単線ではない沢山のやりたいことの中のどれかに時間を役立てることと言いかえることができるはずです。生命維持や勉学・研究のため、はたまた趣味や恋愛のため。

それらの割合を決定するのは自分自身ですが、自分がどう時間を使うのか、ということは「生きるこいうこと、そのもの」(p83)にかかってくるのです。この引用部分はMの着目ポイント。「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしている」(p106)ということとも繋がっています。


無駄な時間なんてない、と言うのは簡単ですが、自分でしっかり点検しないことには中々分からないものです。
過去を無視しすぎて現在や未来に生かせないことで、更に多くの時間が無駄になっている可能性も検討する必要があるように思います。


余暇の過ごし方に関しての話をしばらくした後、次の話題に。
よく言ってしまいがちな、「時間がない」という言葉。そう感じてしまうのは、何故なのでしょう。

はっきりしておくと、時間は「ある」のです。僕がこうして結構時間をかけてブログに文をまとめているのも、時間があるからそうしているのです。時間がないならそもそも四人の日程を合わせてわざわざ読書会なんて開かなかったかもしれない。

これも目的意識の問題。時間がないから何かができないのではなくて、何のために時間を使うのかを確定しきれていないから時間をスライドして整理できないだけ、ということが案外多いのでは。
Fがピックアップした「虹の七色」(p236)が見えるか見えないか、ということはここに関係しています。時間がないと言っている人にはないし、あると言っている人にはある。それだけのことです。

特に若いうちは、睡眠時間を少々削っても何とかなるように身体はできています。そこまでしてやりたいことか、もしくは必要のあることか。そこでコントロールがはたらき切らないと、寝過ごして講義に遅刻、とかいう事態になるのです。
また、ビジョン不足の半端な状態で目的が達成されてしまうと、ジジのように後悔する人が出てきます。「かなえられるはずのない夢」(p307)が達成されると、今度はその不完全な夢の維持で手いっぱいになる可能性が出てきます。目標に変化するまで確固たるものになっていない夢は、叶えられると永遠に果てない喪失の恐怖の抑止の欲求へと変化する危険をはらんでいるのです。

そういっただらだらしたスケジュールとは逆に、偶然性を全く省いたスケジュールを立てるとなると、時間の偶然性を否定するとともにすぐさまスケジュールに軋みが生まれてきます。そういう時間計画、果たして楽しいでしょうか。「完全無欠」のビビガールの人形を相手にしたモモ(p131)の反応からも、「完全」の持つ意味の一面を推測することができましょう。

人の目的もそれぞれですが、それに至るアプローチも人それぞれです。幸せを得るために恋愛に走る人もいれば仕事を突き詰める人もいて、質素倹約に努める人も、女王様に鞭で叩かれる人もいます。
もしかしたら、時間を切り詰めることに快感を感じる倹約エクスタシー人種もいるかもしれません。
その人がいいなら、それでいいのです。一個人が他人の生き方をどうこう強制することが大きな無駄です。
理解は示すけど俺は関係ないよー、という見方はY,F間で共通していた模様。


Kは他にp317の「もしほかの人とわかちあえるのでなければ~」をチョイス。利己的に自分の財を抱えがちな人々にはぐさりと来る言葉。
流れなければ腐ってしまうのは、お金でも知識でも同じことですね、ということ。フローの理論とか「神の見えざる手」の前提条件についても絡めて話しました。



今回も中々折り入って触れてこなかったことに突っ込めて、非常に有意義な読書会となりました。
次回は作家研究の発表会。それぞれ担当している作家について語れるよう、読み込みましょう!
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