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万朶会 繋げる読書会

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第七回 カミュ『ペスト』

開催日時:2010/09/8 1510~1700 場所:Moulin de la Galette
参加者:Y,M,F,K
文責:Y


各自試験をまたぎ、ほぼ一月ぶりの読書会。今回からはKがメンバーに加入し、4人での読書会となりました。人が増えると話に咲く花も色と匂いを増します。とても良い回になりました。
では、早速。



著者のカミュはアルジェリア生まれの仏小説家。フランス文学は言い回しが迂遠な部分が多く、Kは相当苦戦した模様です。この日本語訳はすっきりした方だと思うので、そこは読書量の要素が大きいようです。
Fは同著者の『異邦人』をお勧めしておりました。フランス文学、まずは慣れてみましょう。

余談ですが、セイン・カミュはアルベール・カミュの大甥にあたるそうです。ウィキ情報。



さて、内容についてですが。
この小説は「不条理小説」として名高いがために、「不条理」であるということはどういうことなのか、に話題が終始しました。
疫病・ペストという題材は、それ自体としては不条理に当たることは全員一致。では、不条理にはどのような条件があるのでしょうか。

不条理というからには、自分の力では回避できないという点が重要な要素のひとつでしょう。自分の責めに帰すべき要素がないというのも重要です。
それにプラスアルファとして、「脈絡のない不幸」というのも重要になってくると思われます。逆恨みや私怨といった他者由来の不幸は、不条理からは外れてしまうかもしれません。
ということで、会中には出さなかったものの、僕からはエミリー・ブロンテ「嵐が丘」を推薦。どろどろしたお話です。不条理ではない、悲劇小説の例として。僕はまだ読んでないですが!


不条理の例として飛行機事故が出されましたが、そもそも飛行機は何故飛んでいるのか、という話に飛び火してゆきました。「自らのコントロールの範囲外で起きる」ということも、条件のひとつかな。


不条理小説の中では、最終的に主人公はその不条理を乗り越え、または受容するなどして、それを条理に変えて取り込んでいきます。しかし、果たしてそれは伝聞された者においてもなしうることなのでしょうか。
本の世界は無限ですが、できるのは疑似体験。完全に受容するにはそれを体験するか、もしくは自ら書くことを必要とするのかもしれません。



では、各自の印象に残ったシーンを。


K:p433の妻の死亡を伝える電報が届くシーンに加え、p271のペスト流行の終息を願う人々のシーンを選出。

主人公たちの視点からだけでなく、一般民衆からの脅威の見え方にも言及している所が実感としてのペストをより奥深くしているようです。


F:p204「愛するか、あるいはともに死ぬかだ。それ以外に術はないのだ。彼らはあまりにも遠くにいる」

ラジオの呼び声に対し、リウーが吐き捨てるこの台詞。
人はそれぞれ自分の手の届く範囲にしかその世界はなく、その外から差し伸べられる共感を皮肉っています。
共感には、共有が必要。ネットの網が「世界」を覆った現在、その共感の届く尺度を測れなくなった人々を思い起こさせはしませんか?


M:p437「差し当たっては、ペストが来ようと去ろうと~」の部分をチョイス。

自身に起こったこの結果は果たして本当に順当なものだろうかとランベールが混乱するシーン。
大きな不条理からの解放に頭がついていけておらず、世界から浮いたような気持ち。覚えがある人もいることでしょう。


Y:p292-294、オルフェウス役の役者が舞台上でペストに倒れるシーン。

作中でリウーがペストと相対することを永遠に続く敗北と評したように、不条理には逃げ場がありません。一時の享楽を得ようと人々が詰めかけた劇場にさえ、ペストの手は届いている。「一瞬も忘れることができない」という不条理の性質を劇的に示したシーンのひとつだと思います。



さあさ、今回は不条理について良く話し合った、興味深いものとなりました。

次回はモーム著「月と六ペンス」です。世界の十大小説の選者、彼自身の腕前は如何に。
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